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大峰山遭難(ラジオの情報)

土曜日の朝8時からのラジオ番組「石丸謙二郎の山カフェ」。

この番組のディレクターは、鬼気迫るものを持っている。

 

その「山カフェ」に出演したのが、1975年夏の「大峰山遭難」事件、4人組の高校生(当時)リーダーの「Jさん」。その話に衝撃を受けた。

 

■あらすじ(ネットで調べた情報を追加した)

1975年(昭和50年)夏。

神戸の高校2年生Jさんと、3人の仲間(2人は高校2年生、1人は高校1年生)、つまり合計4人のパーティは奈良県大峰山系に二泊三日で沢登りに向かう。Jさんは、高校2年生ながら、地元の山を踏破し、経験と自信に満ちていた。他の3人は、全くの初心者。

 

■1日目

仲間たちと大宴会をやらかし、食料の半分を食べてしまう。

 

■2日目

雷雨に見舞われ、地図を読み違えて道に迷う。道なき道を進んだため戻れなくなる。崖っぷちでロープを体に結び付けて眠る。

 

■3日目

「軽自動車サイズ」の岩が落ちて来て砕け散る。それを見て1年生がパニックになった。空腹のためか、幻覚や幻聴が現れる。

 

■4日目

リーダーのJさんが高熱になる。他のメンバーが、Jさんのために貴重な食料の「お粥」を「大目に」分配する。

 

■5日目

電池が切れたラジオを改造し、懐中電灯の電池と繋げる。ラジオで救助隊が出たニュースを知る。

捜索の目印として黄色いポンチョを滝に吊るす。

 

■6日目

再び、激しい雷雨。仲間がお経を唱え始める。

 

■7日目

ラジオで「生存の可能性は低い」と報道される。救助ヘリを見つけてタオルを振ったが、気付かれなかった。

 

■8日目

ラジオから「捜索を打ち切る」と報道され、生徒手帳に遺書を書き残した。

引き上げる途中の捜索隊が、偶然、目印の黄色のポンチョを発見し、救助された。

下山後、「検死医」が待機していた。

 

■救助後

「おにぎり」を貰ったが、健康状態が悪く、食べることができなかった。

マスコミからの執拗なバッシングを受ける。

警察からの長時間に及ぶ取り調べ。

捜索費用400万円の請求。(4人の親で分配して支払う)

高校を無期停学処分。

高校運動部の対外試合自粛により、生徒たちから恨まれる。

(連帯責任を負わせて追い詰める)

 

運動部の対外試合自粛は、「申し訳なくて辛い体験」だったという。

 

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なかなか多くの示唆に富む情報が得られる話だ。

 

■他の逸話

当時の「救助隊隊長」に数十年後に再会(偶然)、そのときに自らこう告白したという。「私があのときの4人グループのリーダーだったものです」しばらく沈黙が支配したのち「救助隊隊長」は、ぼそりと、登山のアドバイスのような言葉を言ってくれたともいう。(聴き逃した)

後からネットで調べたところでは、「沢に行くなら時間を考えていきなさい」と言われたそうだ。時間と言うより装備と食料、そして計画。地図をしっかり読んで、迷ったらすぐに戻る。その他、基本的な手順が踏まれていなかったのでは、と思うが。

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親御さんたちは、心の底から心配したことだろう。

そして4人とも生還。

本当によかったと感じられる。

 

それにしても、マスコミや学校の対応は苛烈である。

今だったら、校長が謝罪するところだが、逆に本人たちを吊し上げるとは。また、マスコミの苛烈さは今も昔も変わらない。「困窮している人が居たら、晒し者にして叩きのめす」恐ろしいことだ。

 

まさに自然よりも、もっと恐ろしいのは「人間」である。