3万ペソで楽しく暮らす

住居費以外を3万ペソ(60万円)で楽しく暮らす。エンジニアのブログ。

「お客様は神様です」が日本を毀損していくのだろうか

「お客様は神様です」の本当の意味は、

こんな私のところに来てくれるお客様は、神様のように感じられる。

 

という想いから生まれ出た言葉というのは、感じていた。

 

だがしかし、いつの間にか、その言葉は変化していき、「お客様は神様と同じだから、何をやっても許される」の意味になっていったようだ。

 

お客様は、もともと有利な立場であり、その要求を断りづらい。

 

早く、安く、高品質、小さく、対応も良く・・・

キリがない。

無限の要求になってしまうのは、容易に推測できる。

 

下手をすると、大赤字で請け負い、対応することになる。

トラウマになる程の目にあい、苦しみを感じて開発しても、十分な金銭的報酬が得られなければ、「もうやめよう」になるだろう。

 

誰だって、奴隷のようにこき使われて、賃金も半減。などとなったら嫌だろう。

それが現実のものであるのは、「お客様」の「ご要求」があるからだ。

 

試しに要求してみたら、受け入れられ、それがスタンダードになってしまった。

奴隷労働から抜けられない。

 

休みもなく、安寧もない。

ズタズタ、ボロボロになりながら働いて、報酬も半減。

辞めていく人が後を絶たないのも当然だ。

 

正義のない神様ほど恐ろしいものは無い。

まさに「荒ぶる神」。

 

神様を崇拝するのは、もう辞めよう。

そういう時代が、来つつあるように感じられる。

 

だが、そう簡単には辞められない。

 

我々個人にできることは、何だろう?

 

ここから得られる教訓を記憶しておくこと。

得られた知見を記憶しておくこと。

この日々を記憶しておくこと。

 

そういうことぐらいか。

 

だから、私は自分が客の立場になっても、要求も期待もしないことにしている。

せめて自分は、人々を苦しめたくはないのだ。

 

だがもちろん、知らず知らずのうちに、

「神様」のようにふるまってしまうこともあるだろう。

 

「お客様」を鎮めるための、「祀り」が必要なのではないか?

そう考える日々である。

たぶん、日本の「お客様」は「祀っても」祟る可能性の方が高いと思うが・・・

 

↓ 神様の祀り方・・・