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住居費以外を3万ペソ(60万円)で楽しく暮らす。エンジニアのブログ。

ウズベキスタンの日本人墓地(抑留の果て)

タシュケント


タシュケントには「ヤッカサライ墓地」があって、そこには、79名の日本人が眠っているとされる。

それは、太平洋戦争後、ソ連軍に連行され、ウズベキスタンに抑留された日本人兵士たちの墓である。

 

ウズベキスタンの「日本センター」にある資料を読んだところでは、それを指示したのは、スターリンで、関連する詳細な文書も残っているという。

 

つまり、ソ連によって、強制連行され、労働させられた日本人が、シベリアだけではなく、このウズベキスタンにも居たのだ。

「何らかの理由」により、この地で死亡した人たちの墓がタシュケントにはある。

 

・・・市の中心から、南南東方向にバスは進み、車掌が教えてくれた場所で降りる。

少し歩くと、スロバキア大使館があり、その隣に博物館があるのだ。
しかし、その「日本人博物館」は、土曜日だったので閉館。見学は出来なかったのが、残念だ。

墓地の周りに、花屋があると思っていたが、そんな気の利いたものは何も無く、私は手ぶらで墓地に入っていった。

 

墓地

墓地を歩いていると、
「日本人墓地はこっちだ」と教えてくれる人が居る。

(ウズベキ語でなく)ロシア語で言ってくれたので、私にも理解できた。そちらに歩いていくと、墓標が整然と並んだ一角が見えてきた。

さっきまでは、肌寒いくらいだったのに、晴れ間が見えてきた。
春の風は冷たいが、清純な穏やかな風が心地よく吹き抜ける。

 

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永遠の
平和と友好
不戦の誓いの碑
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と書かれた碑が建っていた。

そして、その碑の向こう側には、平べったい墓標が空を向いて土に埋め込まれている。

 

墓標の周りをゆっくりと歩いてみる。

綺麗に掃き清められた墓地は、春の風がやさしく漂い、爽やかささえ感じられるようだ。

その一角に、桜の木が植えられている。
まだ、数年しか経っていないのだろうか、幹は細く、丈も3メートルほどしかない。

 

花が咲いていた。

ウズベキスタンの春風の中に、淡い桃色の花が咲いている。
近づいてみると、ブーンという音がして、蜜蜂が蜜を集めている。

 

日本を出てから3年近く経っていた。

桜は随分と長い間、見ていないので、この桜が本物の桜かどうか自信が無いが、
そんなことよりも、目の前のある花が春風に揺れていて、それが、日本を強く思い出させることが重要な気がする。

 

兵士

恐らく大多数は、徴兵されて、不本意ながらも兵士として戦い、ソ連により連行され、
遥か中央アジア(当時はソ連)の地で死んでいった人たち。

きっと、故郷を懐かしむ日々を送っていたことだろう。
しかし、もう二度と故郷の地に戻ることはできなかった。

そういう人たちが眠る墓地。

 

ラグマンや、マントゥや、ナンや、ピロウ(ピラフ)などを食べながら、(ウズベキスタンでよく食べらる食事)あるいはもっと粗末だったかもしれない食事を摂りながら、異国の地で労働を続けていた人たち。

 

不自由なまま、訳も分からず死んでいったかもしれない人たち。

人手不足の中央アジアで、労働に従事させられた人たち。
どういう理由で亡くなられたのか全く分からないが、若くして異国で命を落とした人たち。

 

ああ、私は今こうして立っているけれど、何十年も前に、同じ場所に立っていた兵士たちが居たのだ。彼らの胸には、どんな思いが去来していたか。

私がこうして今、考えていることを「理解」してくれる人が殆ど居ないように、彼らの「想い」を「理解」できる人は、殆ど居ないのかもしれない。

 

それどころか、「戦争犯罪人」と、彼らのことを非難する人すらいるかもしれないのだ。非難され、罵倒されながら、黙々と強制労働を続ける人々。

そして「何らかの理由で」若くして息絶えた人々。

 

碑に書かれた文字を再度読む
「不戦の誓い」か・・・


政治的なことって無慈悲だな。

 

スターリンの命令によって抑留(強制連行)された人たちは、いったい、どんな思いで死んでいったのだろう。

彼らの身に起こったことは、「自業自得」だと考えている人は、たくさん居るだろう。

しかし、他の国々と比較して、その差があまりにもありすぎるような気がする。

(それが、「良い」とか「悪い」とか、言いたいのではなくて、「何故」こういう差があるのだろうか?ということを考えている)

 

私個人にしても、「日本人を強制連行した」からといって、ロシア人が悪いとも、憎いとも思わないのだ。何故なのだろう?

 

蜜蜂

 

桜の花に近づいて、じっと見つめる。
ブーンという蜜蜂の羽音が聞こえてくる。

 

今、この墓地に立っていて、死者の魂が蜜蜂になって、私の周りを飛んでいるのかもしれない。

そんな妄想に襲われた。

 

故郷を思い出せる桜の花に蜜蜂は止まり、また飛び立ち、次の花に止まり。

 

そして・・・一匹の蜜蜂が私の肩に来て、羽を休ませている。

私はゆっくりと歩き始める。肩に蜜蜂を乗せたまま。

 

墓地の中は、コンクリートブロックで、道が作られている。
コツリコツリと、自分の足音が響いている。
蜜蜂はまだ、羽を休ませている。

コツリコツリと、私はゆっくりと墓地を歩く。

風に乗って、様々な思いが、胸に去来する。

戦争、平和、不戦、政治、歴史、民族、相互理解・・・
ああ、世の中は虚しいことばかりだ。

 

ふと、気が付いて、肩に目を向けると、
そこに居たはずの蜜蜂は、いつの間にかどこかへ消えてしまった。

 

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タシュケントの街には、オペラ劇場がある。
そのオペラ劇場は、日本人も建設に参加した(させれれた)という。

「日本人が建設に参加した建物は、タシュケント地震のときにも、壊れなかった」という話を読んだ。

だからといって、日本人の能力が優れていたわけでも無いだろう。
どちらかというと、設計者の能力が優れていたのだろう。

 

逆に、日本人が建設に参加した建物「だけ」が地震で崩壊したとしても、それは、日本人の能力が劣っていたということにはならないだろう。
(設計がダメなら、いくら頑張って建設しても、壊れる可能性はある)

(現地の宿に泊まっていて、「仕事のいい加減さ」は、かなり目に付く。
立て付けの悪い扉。段差が均等でない階段。ぴったり閉まらない窓)

 

それはともかく、この建物の建設が、抑留された日本人たちによって作られたというのは感慨深いものがある。

 

その日は、奇しくも、オペラ「蝶々婦人」を上演していた。
(ロシア語でも「マダム・バラフライ」のようだ)
入場料1500ソム(150円)

 

 

日本人墓地の桜

 

石碑 花束が供えられている