「故郷」
そうカッコつきの「故郷」
そこに、私は暮らしていた。馴染んでいた。苦楽を共にした。地獄のような日もあった。そういう「故郷」、つまり本当の故郷ではないが、事実上の故郷のような場所。日本国内であれば、A市やB市、海外であれば、ブエノスアイレスや、ビーニャ・デル・マール(ビーニャデルマル)など。あるいは、ガテマラ(グアテマラ)のアンティグアやメキシコシティなどもそうか。
そういう「故郷」へ帰る日は、おそらくもう来ないのではないか。
そういう危機感のようなものを抱きながら私は生きている。とにかく時間は無い。土曜日も日曜日も出勤しているのだ。それが致命的である。自分が生きていくために大切にしていたものが、削ぎ落されていく恐ろしさ。日本で生きていくためには仕方がないことであると分かっているけれど、もはや、生きるためのエネルギーが、どんどん奪い取られていくようだ。
だからって、それを傍観している訳にはいかない。何とかして生きていくという執念のようなものはある。
「故郷」は記憶で蘇らせる。あのときの記憶で。だから私にとって、大切なものは、もう戻らないあの時の記憶なのだ。
そして、たぶん、外国を「故郷」と感じる私には、日本での暮らしは、(本当の意味で)馴染めないのかもしれないと考える。日本の生活に馴染んでいて、日本人の思考にも馴染んでいるけれど、あのとき、あの国で暮らしていると、その国の「生活」が、じわじわと体の中に沁みていき、次第次第に日本人から離れていくような感じがするのだ。
そういう「故郷」。
思い出すと、胸が締め付けられそうになる「故郷」。
インドのエンジニアと一緒に仕事をしていて、その「故郷」を、思い出してしまう。
もう戻れない、あのときの「故郷」を。